うさぎのりんちゃん
一生懸命生きた小さな命が昨日「さようなら」をしました。こちら
持って生まれた身体のハンディ。
神様からきめられていた日まで一生懸命頑張ったということです。
生き物すべてが「生まれたときに決められている日」があるのならば、
一生懸命に精一杯「生きる」。
こんなことわかっているはずなのですが、
なにかと『ダラダラ』と過ごす時間・日々。
そして今回のりんちゃんに限らず、「生きていることに一生懸命」な姿を知ったり見たりすると
「いかん、いかん!生きているありがたさを忘れちゃいかん!!」と、
再認識するのです。
わたしなんぞ、何度その「再認識」を繰り返してきたことやら。
「見習わなくちゃ」「心して生きなきゃ」「毎日を大切に」「毎日に感謝して」
心身ともに「楽したい」という煩悩が強いので
いっときの「再確認」を忘れがちに過ごしているのです。
りんちゃんがお空に向かって丁度丸一日たった8:20の
今朝の空は
快晴。
青い空に刷毛で刷いたような雲。
これくらいの雲だったらお月様に帰る道に迷わないね、りんちゃん。
長じて、離れて暮らしていた肉親が亡くなったという事実。
(亡くなったこと・・・母は20年・父は10年経っている)
これはね、なんとも言い難いんだけれど、
わたしの場合、「実感がいまだにない」というのが正直なところ。
同居していたわけでないから、今現在わたしが生活している家に
姿がなくて当たり前だし、実家に行けば「居る」んだと思ったり、
実家に行ってその時顔を見ることができなくとも、「あぁ、出かけているんだ」と。
これって、認めたくないのかしら?
病気続きで心配ばかりかけたっけ。
いっぱいいっぱい「思い出」作ってもらったのに。
なのに、「実感ない」なんて冷た過ぎるかなぁ。
ペットはね、コロンもうさこもね、座ったり寝たりしていた「定位置」があったでしょ。
そこがポッカリ空いちゃうって現実を「逝っちゃった」直後からぶつけられるのね。
亡くなった肉親の声・口調・仕草を思い出そうとするには
その場面を思い浮かべなきゃならないけれど、
コロンやうさこの場合はね、「定位置」に目が行くと幻かと思うほど
姿仕草が頭の中をよぎっていくのです。
まぁね、実家に行けば「定位置」に姿仕草を見るのかも。
2009.11.8 12:56
ほらね、胡坐をかいた母の足にピッタリお尻つけてが
「定位置」の一つだったの。
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