2015年12月1日火曜日

焼き芋・・(身近な風景)

          12月・・・晩秋か初冬か?


この時期、いい匂いがするのです。最近「いもジェンヌ」がおいしかった。

どこぞの携帯電話ののCMじゃないけれど「パカァ~ン」とふたっつわり。

一年中売っているようなところもありますが、


やっぱり秋。
それも晩秋の風物詩と思うのです。

店頭から漂ってくる「焼き芋」の匂い。

美味しそうだなぁ。と思うとともに、
なぜか「漠とした」寂しさ・・・とでもいいましょうか、
表現できない気持ちが・・・・・胸に感じるのです。

なんなんだろう?

秋は「物悲しい」とも言いますが、
夏の活動的な時期が過ぎると人間の生命的にも「落ち着け」と
なるのかなぁ・・・なんて、こじつけ持論。

「焼き芋のにおい」からわたしの連想するもの。

「あら、おいしそう♪」は、ごくごく当たり前。

そして必ず次に来るものがあるのです。
それは、
ひとつの場面・・・・
黄昏時の道の真ん中に立って、向こうから近づいてくる人影を待つわたし。
幼いわたしが、目を凝らし、じっと道の向こうを見つめる。
母を待つ幼いわたし。

体調を崩して入院した父の付添を終えて帰ってくる母を待っていたわたし。

秋はすぐに日が落ちる。

ドンドン沈んでいく夕日。
その沈みいく夕日を背に、病院の付添を終えて帰ってくる母。
(わたしの幼かった頃の時代は、入院患者には付き添いが当たり前)

晩秋の日暮れの速さの中、遊んでいた友達も家路に向かい、
母の姿が見えるまでの心細さ。

なぜかこんな場面が強烈に思い出の引き出しにあるのです。

この場面て、本当の事なんだろうか?

父の入院は事実。
母が帰ってくるのを待っていたことも事実。

でもそれが、季節的に晩秋だったか?
後々、母を待つ幼い自分の姿を立たせるのに、
日暮れの早い晩秋を背景に記憶し直したのか?

自転車で移動していた紙芝居屋のオジサンの顔は今でも覚えている。
大きな壺(子供の目で見たから大きかったかも)・・・今の時代のように、
遠赤外線で焼く「焼き芋」ではなく、
壺の中にカギにつるしてサツマイモを焼いていたっけ・・・・
「壺焼き芋」・・・グーグル先生に聞いてもましょう。
           すぐの画像を見せてくれますよ。

母を待つ間の心細さが、何だかこの時期の「焼き芋」の匂いのお供なのです。

一年中売っているから、この時期でない「焼き芋」の匂いは
こんな気持ちは伴わない・・・・のですが。

一時代前の「ノスタルジック」へ導く匂い。



・・・・とここまで書いてきて
なんだか変な感じ。


前にも書いたような気がするのです。
書いてはいないのに書いているような気がする。

「デジャヴ」
「既視感」

自分で自分の過去のブログ辿っても「みつからない」「みつけられない」。


毎年この時期に感じる「郷愁」感なのかな?
自分の気持ちの中で恒例になっているのかな?

このブログの過去の記事で同じ内容を見つけたらm(__)mです。

そうなった場合、「デジャヴ」でもなく「既視感」でもなく、
ただの記憶力低下。
整理整頓が悪いだけです。





昨日の午後3:41の空。     (昨日を付け足す)
間もなく雨が落ちてくる・・・・のでした。


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