2011年5月17日火曜日

アジサイと在りし日の・・・「身近な風景」

今年は年明けから「訃報」が多かった。
家族でのお付き合いのあった方の「 訃報」には
身内のそれとはまたちがう悲しみがある。

身内・・親の時は泣くことさえ忘れた時間が過ぎて行った。

そして時間が過ぎ、日が過ぎ、月が過ぎ、年が過ぎて折につけて
思い出すのがその場その場の親の所作。
あんな時こんな時「そういえばこうしていたなぁ、こんなこと言っていたなぁ」と
思い出してはちょっとうるうるしている自分がいる・・。
「こうして思い出すことが供養なんだ」と言い聞かせ、
「あのね・・」とつぶやいてみる。

家族でのお付き合いのあった方の「訃報」には涙がポロポロこぼれた。
いろいろな場面のその方の所作が思い出されるのは親と同じだけれど、
親の時とは違うもの、違う悲しみがわたしの中で起きた。

お庭作りが大好きで、野菜作りが大好きな方だった。
整然と整えられたお庭。今年は「アジサイを植える」と言っていたという。
長くお庭作りされていたけれど、そのお庭にはアジサイだけがなかった。
「今年はアジサイを植えるんだ」と言っていたという。
ご家族がいくつかのアジサイの鉢植えを買ってこられた。
「植えたかったアジサイ、お庭に植えてみようと思いましてね」と。

鉢植えが根付いたら、これから毎年アジサイの咲く頃にご家族は
アジサイを見入るその亡くなられた方の姿を思い描くのだろうか?
「おぉ、きれいに咲いた!」と喜びの笑顔を浮かべ見入っている姿を
思い描くのだろうか?

父親が趣味で耕作していた畑の収穫時、「食べきれない」と
苦笑いしていた姿を思い浮かべる私のように。
母親が帰省の時に作ってくれた「鰈の煮つけ」を「おいしい」と 言いながら
食べる私を見ていた、その嬉しそうな顔を思い浮かべる私のように。

そして今度父母と最後に行った観光地へ行く予定を立てた。
そこに立ったら、そこを歩いたら、そこの風景を見たら
父母と一緒に「立って、歩いて、見る」ことになるだろうか?
その時の父母の姿が見えるだろうか?


  アジサイの花言葉・・「移り気 」「高慢」 「無情」 辛抱強い愛情」
            「冷淡」「元気な女性」「あなたは美しいが冷淡だ」
                                      etc.
            いろいろあるけれど、
            ここでは「辛抱強い愛情」としておこう


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*Edyさんへ
  いつしか「お見送り」が多くなりました。
  特に『親』という存在はいつまでもあると思っていた。
  「見送った」記憶はあるのですが、「いなくなった」ということが
  時々わからなくなるんです。
  実家に行けば居るのではないかと。実家に行って居なければ
  「あぁ、出かけたのか?行き違いかぁ。」とか思ったり・・。
  そうですね、ことあるごとにその場のその所作を思い出して
  いければいいと思います。
  
  「うみねこさん」のご主人様。素敵な方ですね。
  きっとうみねこさんとご一緒にキーをたたいていらっしゃるんでしょうね。
  天使がタンポンの綿毛の風車に乗って・・クルクルと・・
  うみねこさんを連れてきているのかもしれませんね。 
      5/18 pm5:26 追記 

1 件のコメント:

Edy さんのコメント...

肉親や愛する人、親密な人を失うことは、
本当に辛く耐え難いことですよね。
記事を読んでいて、泣いてしまいました。
でも、そんなふうに、在りし日の出来事を大切に、ことあるごとに思い出してもらえる故人はとても幸せです。
きっと、思い出すたびにそばによりそって、
「ありがとう」って言っていると思います。

PSうみねこさんの記事、私も拝見しています。過酷な状況は変わらないと思うのに、気丈にブログを引き継ぎ、更新していらっしゃるご主人に頭が下がります。