思い出や記憶が走馬灯のように・・・とは「言いえて妙」であるとここ最近実感。
子供のころの記憶が自分自身のものなのか、はたまた大人たちの話のつぎはぎが
自分の記憶になったのか。
あの時はこうだった。
母が言っていた。母の声が耳元で聞こえるような
父が言っていた。父の声が耳元で聞こえるような。
保育園児のころの記憶はいくつか確かにある。
ある場面と連動しての確かな記憶が。
小学生のころの記憶…このころはかなり記憶として残っている。
「走馬灯」のように次から次へ場面が変わってその時の言動さえも思い出す。
そう、今思い出しても「あの時間」は、私にとって数ある「楽しかった時間」の
筆頭に挙げるほどのホントに、ほんとに「楽しい時間」の記憶・思い出。
なんと表していいのかわからないほど「幸せ(?)」を感じたあの日のあの時。
俗にいう、「得も言われぬ幸せベールに包まれた」感を過ごしたあの時間。
あの日あの時、ああぁ、これを人は「幸せ」というんだろうなぁ。と思ったあの高揚感。
心身ともに疲れ切って「難儀難儀」と大きなため息ばかりついて仕方なかったあの時。
話を聞いてくれたあの人たち。
「こうしたらいい」とか「こうしなさい」とか言わず、わたしがどうしたいかとだけを
わたしが自分自身で気づくまでただ黙って聞いてくれた。
父も母ももう声さえ思い出せないくらいになった。
でも、場面場面の思い出はコマ送りのように思い出せる。
記憶や思い出の不確かな部分を補填してくれる人も「一人減り、二人減り…」
今もはっきりと耳が覚えているあの人の声。
共有する思い出を語り合えることはもうないけれど、
私がこんなこと・あんなことを言ったら、聞き覚えのある声や言葉使いで
きっとこんな風に返してくだろうと。
記憶と思い出の何もかもがコマ送り。
「走馬灯」・・・・
つくづくと、年齢を、ここまで過ごしてきた年月を改めて思い返している。
良くも悪くも・・・今日より先はどうなんだろう。
あぁ、しんどっ!!
「楽しくて・幸せベールに包まれる」ワクワク・ドキドキするようなことが
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